2011年11月25日金曜日

食べ物の、もしかしてちょっとここだけのいい話。

 

親子3人で風邪のリレーを行っております。どーもこんにちわゆき坊です。
いやはや、噂には聞いていたのだけども、今年の風邪はしつこい!です。
先週頭から風邪っぴきだった息子も、まだ朝晩ゲヘゲヘ言ってます。
何をするにも体が資本。健康でなくちゃ、心もなんだか浮き沈みが激しくなってしまいがち。。
早くなんとか治さねばという感じでございます。

さて、しばらく書かなかったけど、書き始めた私のブログ。
以前の自分と、311以降の自分の変化を書きましたが、その変化は色々あります。
まずは、今、ここに生きている事への感謝。
これはもぅつべこべ書く必要もなさそうです。
たぶん、あの地震の恐怖とニュースで見たショッキングな映像と現実を知れば、
誰もがそう思った事と思います。
今ここでこうして暮らしていられる事は、当たり前なんかじゃないんだなって、思います。
自分がいくら気をつけていても、あっという間にすべてなくしてしまう事は、あるんだなって
本当の意味でわかった。知ったような気がしています。

その後に起こった原発事故で、価値観や物の見方が変わった自分がいましたが
変わったのはメディアなど、情報との付き合い方みたいなものかもしれません。
その他、日々の食事や環境、地球や子供達の未来については、「変えていかねばな」という気持ちのほうが強いです。
偉そうに書けるハズもなく、日々の暮らしの中にはそうした大切な事を忘れてしまう・・
いえ。感じる事ができずらい世の中の仕組みがある事を知らなければいけないと思ってます。

そうした中でも、自分でも、ずいぶん考えるようになったな。というのが毎日の食事について。
食材について、です。
日々の食卓で食べている物が、「いつ、どこで、誰が、どういう風にして作ったか」という事は、
忘れるどころか考える事すらなくなっているのかもしれません。
もちろん「その後、どんな風に加工されて、どんな風に運ばれてきているか」なども含めて。

私も若かりし頃は、焼き肉のバイキングなどにもずいぶん行きました。
忘年会など思い出すと、もう食べれなくてお皿にとった物を残してみたり、飲み過ぎ食べ過ぎで
ゲーゲー吐く者まで現れる。
ファーストフードは今でもたまーーーに行く事もあるけれど、いざハンバーガーとポテトとドリンクの状態からは、
以前それらの材料の一部が「生きていた物」だったとは考えづらい。直結しづらいように思います。
ハンバーガーは、ハンバーガーなのです。ステーキはステーキ。とんかつは、とんかつ。
そう思って食べている。

でも、実はそれらは生きていた。私達とおなじように、この世に産み落とされた一つの生命だという事。
私は別にマクロビしているワケでもないし、誰かに説教するつもりもありません。
が、私自身、本当に、本当の意味で、それら食材の事を、やっとちゃんと考えれるようになってきたなと思うのです。
そして、それと同時に反省したりするのです。
知らなかった、考えられなかった、想像力のない自分について、反省したりしている今日この頃です。

自分が豚飼ってたらどうでしょう?
鳥でもいいです。
育っていくまでに愛着がわいてきそうです。でも、それを食べる時がきます。
捌きます。血抜きしたりして、自分でその動物を切る事を想像してみて下さい。(強制ではないのでイヤな方は考えないでスルーしてください!)

・・・・・。その豚ちゃん、鳥さんのお肉は焼き肉屋さんのバイキングへ行きました。
次次に運ばれてくるお肉にまみれて、そこにあった命を頂くという感謝もなく、見る事すら軽くスルーされて
誰かのクチの中へあっという間に運ばれていきます。
もしくは、いいだけ食べた後のギトギトになった残りの焼き肉のタレにひたされたまんま、
誰かに食べられる事もなくゴミ箱へといってしまうかもしれません。
そう思うと、その命がなんだかかわいそうに思えてきてしょーがなくなりました。
食べるな、というのではなく、感謝して食べたい。言わば食べられる命に、きちんと向き合って、食べたい。
「いただきます」という言葉は、まさに命そのものをいただく儀式として、昔からあった言葉なのではないかと
本当に本当に、心から、やっとそのような事を考えられるようになった自分がいます。
もちろんお野菜にも命があると思うし。

食べ物が、自分の前に現れた時に、それらが土の上や水の中や、どこかで生きていた命だったと言う事を、
少しでも想像して、食べたいと思うのです。
そうすると、たぶん自然と目をつむって手をあわせ、「いただきます」といえる自分がいると思います。
そして、食べ終わったら「ごちそうさまでした」と。
自己満足なのかもしれないけれど(動物さんたちごめんね)、「おいしかったよ、ありがとう」と言いたい。
食べた命は私の中に入って、その魂みたいな物がエネルギーになって、私という人間をつくり、生きてゆく。
そんな事をきちんと考えながら、食材を選び、食べ、生きていきたいと思う今日この頃なのでありました。

私は今、食材の産地を選んで購入しています。
放射能汚染が人体に及ぼす影響が、すぐにはわからなくて恐いからです。
本来は「地産地消」がモットーなのに、やってる事が矛盾してきてストレスですが、
福島の原発が、とりあえず収束する迄でも、そうした食材選びはしていこうかなと思っています。
そんな中、息子へのお弁当持参を考えたり、どこで食材を調達しているか?などについて
よく情報をシェアしている友人がいます。
時には「葉物が全然ない!食材がない!」などなると、「うちに少しあるから分けよう♪」なんて、
今時本の貸し借りでもない、「野菜のお裾分け」をしあっている友人。

そんな友人が、前に言った言葉。
「今は安心して食べられる食材が貴重だから、皮までおいしく食べるのだ」と。
私も以前、多少ミーハー気分でそんな風に皮も調理していきがってた時があった。
でも、今は本当に、安心して食べられる食材が貴重だと心からそう思う。
有機栽培や自然農などで作ったお野菜は、スーパーで売られているようなキレイなビジュアルでないのもあるし
第一、「高い」のだ。
でも、自分で野菜を作ってみるとわかるのだけど、大根一本100円とかって、安い。
もちろん安いと家計は大助かりだけど、なんか違う、違うのではないかと思えてきてならない。
野菜の価値は、なんだか低い。
そうした安さの中には、大量生産や、安くできる理由が入っている。
そうした結果、遺伝子操作された種から育った野菜の存在や、農薬や肥料の問題が出て来る。
農家の人が、その農薬なんかで体こわしてるっていう話もある程だ。

我が家はぶっちゃけ、今田舎暮らしに向けて家も購入し、お金がない。
でも!
それでもね、一応知っているという事や、選ぶ、考える、という事はしていきたいと思っている。
時にはそうした中でがんばって安全なお野菜を作るべく、現代的な簡単な方法をとらずに
がんばっている農家さんを応援していく事。
だからこそ、皮まで使える野菜にお金を投資したい。
その栄養は、自分の体を作るのだから。
自分の今のライフスタイルや、食費として使える資金などにあわせて「チックショー、いつかはこっち買ってやるっ(泣)!」
みたいな葛藤も織り交ぜながらも、日々の食材を考え、調理していきたいな、と思ってる。
食材ひとつひとつに感謝をしながら、今日も明日も「いただきます」と。

 先日友人の家に、ちょっとした物を届けにいった時、帰り際彼女が「あ、ゆきちゃん、ちょっと待って♪」と、
冷凍庫からなにやら取り出し私のクチにポイ♪っと入れてくれた。
おいしいそれは、私の大好きな「チョコレート」だった。
「おやつもね、いいものをちょっと!を心がけてみようかと思って」と彼女は言う。
そのチョコレートはフェアトレードの物だった。
きびしい労働条件の中、がんばってチョコレートに使うカカオの仕事にたずさわる子供達を思って、
ちょっとキュンとしながら味わって食べた。
なんだかすごい満足感のあるひとかけだった。

家に帰ってその話を旦那さんにしたら、「いつも俺が言ってた事じゃないかー!」と、怒られた(笑)。
彼は、そのへんの感覚が、私よりも一歩も二歩も前を進んでいる感じだったのだけど
そうした人々の影響をうけて、じわじわと、私は私のペースで、食べ物に対しての
自分の在り方、みたいなのを今はすごく考えている。
そして、知る事はやはりいい事で、食べものひとつひとつがありがたく、すごくおいしくて満足できるようになってきた。

やる人はもっと先いってるしね、ストイックになってもきりがないんだけど(笑)、
楽しめる方法で、これからも自分なりに成長していきたいと思っています。
「チョコレートは私のガソリンです!!!」なんて言って、起きがけにチョコパイふたつとか平気で食べてた自分よ、サヨウナラ。

※ 写真は最近息子お気に入りの「黒糖ドーナツ」。
色々作ってるけどアップしてる暇&写真がナッシング。

4 件のコメント:

marurun さんのコメント...

もうずっと前の事だけど、学校の研修旅行でアメリカに行った時。
食事の時に「いただきます」「ごちそうさま」を英語で言いたくてガイドさんに聞いたら、英語にはないって言われてね。
「いただきます」は神様へのお祈りになっちゃうし、「ごちそうさま」はシェフを呼びましょうかってなっちゃうし。
「いただきます」と「ごちそうさま」が根付いてる日本は、食を大切にする人々の国だと思う。(っていうか思いたい)
長いコメントになっちゃった(汗)

ゆき坊 さんのコメント...

marurunさんへ

そうだねー。。
ニポン特有の言葉なんだね、きっと。
この文章は自分の心の中の備忘録としても書きました。
先日とらる映画を見てね。(次のブログに書こうかと思っているのだけど)
全部が全部そのような食材事情ではないと思うし
皆が感謝していないなんて事もないと思うけど、
もっとその食材が歩んできた世界までもを想像しつつ感謝しながら食べたいと思ってさ^^
おなじ命なのに、生まれる前から食べられる用に操作されて生まれてくる命もあると知った時、
人間てば、ちとやり過ぎじゃないのかなと思った。
でも、その先には一見豊かになったかのような
今の食事があるのだなとも。

これからは、少し今までよりもあらゆる物、事に不自由してもいいから、他の生き物たちにも優しい環境を作ってあげたいなって、そう思ったりするんだ♪

そらいろ農園 阿部 さんのコメント...

自分としても興味深い話です。自分の場合,食事前に「いただきます」というのは生き物への感謝の意味というよりかは,「作ってくれた人への感謝の言葉として言わなくてはいけない言葉」になっていたかもしれない。

家畜を飼って自分たちで肉をさばいたりしなくなったから「命を口に入れて生きてる」という本質的なことを親は子供に教えることが難しくなったのかなと思う。こういうのは教科書やテレビで教えても駄目。他人事になっちゃうから。

食べ物への感謝=生き物への感謝は私たちの生活を豊かにしてくれてる。毎日の食事が楽しみでならない。

ゆき坊 さんのコメント...

あべっちさんへ

私達の食卓は、たくさんの命と直結してるんだよね。
ついつい鈍感になってしまう自分にたまに言い聞かせなきゃなと思っています。
あまり考えすぎてもつらくなるんだけど、
昔からそうやって命をいただいてきた文化と歴史もあるのだから、
感謝しておいしく食べるというのは
最低限の礼儀だと思うんだよね。
食べ物に対して、誠実でありたいと、とても思う今日この頃なのです。